無限とは何か

無限という言葉は、人間にとっては神秘的な言葉です。この言葉を聞くと人間は思考停止に陥る傾向があります。しかし、この論考では冷静に議論したいと考えます。そのためには数値化するのが一番です。まず、無限の大きさの数は存在するのかということを考えます。自然数と生命で述べたように自然数は全ての生命の認識の基本です。その上で、現代数学の一般的な立場との整合性を考えると、ペアノの公理から始めるのが妥当です。数を構成する場合、最初にペアノの公理を用いて自然数を構成するのが普通ですので、以下にペアノの公理を示します。

  1. 1 は自然数である
  2. 任意の自然数 a に対して、a+ が自然数を与えるような右作用演算 + が存在する
  3. もし a, b を自然数とすると、 a+ = b+ ならば a = b である
  4. a+ = 1 を満たすような自然数 a は存在しない
  5. 集合s が二条件「(i) 1 は s に含まれる, (ii) 自然数 a が s に含まれるならば a+ も s に含まれる」を満たすならば、あらゆる自然数は s に含まれる。

ペアノの公理の5番は数学的帰納法の正当性を保証します。ペアノの公理を認めてしまえば、無限の大きさの自然数がないことは、数学的帰納法で簡単に証明できます。

  1. 自然数1 は有限である。
  2. .自然数 n が有限であれば、自然数 n+1 は有限である。
  3. 全ての自然数は有限である。

このように、数学的帰納法によって、無限の大きさの自然数が存在しないことは明らかです。ここまでを認めると、有理数は自然数の比ですので、有理数も有限の大きさとなり、実数は有理数の切断ですので、実数も有限な実数しかありません。つまり無限の大きさの数は存在しないことは明らかです。
しかし、ペアノの公理によれば、いくらでも大きな有限の自然数は存在することになります。これをアリストテレスは可能無限と呼びました。これはいくらでも大きな自然数が存在し得るということであって、現実にいくらでも大きな自然数が存在するという意味ではありません。現代の物理学の推定によると、観測可能な全宇宙の素粒子の数が10^80程度です。それより大きな自然数は無意味とも思えます。数える対象が有限であれば、それよりも大きい自然数は無意味に思えます。さらに、素粒子の数が有限なので、どんなに上手く記数法を考えても、有限の範囲の数しか表現できません。ですから、自然数には無限に存在する可能性があるということであって、現実に自然数が無限に存在するわけではありません。このようにアリストテレスによれば、ペアノの公理が保証するのは、存在する可能性であって、存在そのものではないのです。
アリストテレスの可能無限の立場で、我々の認識の基本である時間と空間について検討します。まずは空間につて検討します。最初に考えることは空間とは何であるかですが、空間の大きさは体積で表されますが、その基本となっているのは距離です。この距離を用いて、我々は空間を数値化することが出来ます。現実の空間をユークリッド空間とみなして、デカルト座標を用いれば、空間内のあらゆる地点はx座標y座標z座標で表されます。ここで、x軸y軸z軸が無限に伸びており、空間には果てがないと仮定しても、どの地点でも原点からの距離は有限です。何故ならば、x軸y軸z軸が存在する限り、そこには座標があるはずで、値は当然有限となります。従って、無限に遠い点というのは空間内には存在しない事になります。
次に時間について検討します。時間は無限に続くのか終りがあるのかは不明ですが、終わりが無いと仮定します。この場合も現在原点として座標軸を考えると時間は数値化出来ます。1時間を単位とすれば、未来のあらゆる時点を数値で表すことができるので、未来のどの瞬間においても経過した時間は有限であることが分かります。次に過去についてです。時間には始まりがあったのか無かったのか。アリストテレスの考察は以下の通りです。もしも、時間に始まりが無かったと仮定すると、現在までに無限の時間が経過し終えたことになります。無限の時間が経過祭終えるというのは矛盾ですので、必然的に時間には始まりがあったことになります。こう考えると、無限の時間が経過し終えるというのは有り得ないことが理解出来ます。時間は常に有限の時間しか経過しませんから、有限の時間に有限の時間をプラスしても結果は有限となるのです。これは空間に関しても言えることで、有限の空間に有限の空間をプラスしても有限です。時間と空間のどちらも数値化できるので、どちらも自然数と同型であることが分かります。
これは人間の認識の基本が自然数であるので、通貨としての神経細胞の活動電位で述べたように、人間が時間と空間を自然数を用いて認識するからなのです。そこでペアノの公理に戻って考えると、無限とは無限ループを意味することが分かります。コンピューターで無限を実現しようとすれば、無限ループしかありません。以下に無限ループをなすアルゴリズムを示します。

  1. 1を印刷する。
  2. ステップ1に戻る。

上のアルゴリズムを、コンピューターで実行すれば、いつまでも1を印刷します。しかし、どうしても印刷できる1は有限です。もしも無限の資金があったとしても、地球の資源は有限なので、いつかは紙とインクが無くなります。これが可能無限なのです。

無限ループに対しては、人間は本能的な恐怖を感じます。無限ループの恐怖を表す話として、日本では賽の河原が有名で、西洋にはシーシュポスの神話があります。これらの話は、誰の心にも恐怖心を引き起こします。これは人間には無限ループを避ける本能があるからだと思われます。例えば、犬が自分の尻尾を追いかけて、クルクル回る行動がありますが、これをずっと続けては犬は消耗してしまいます。そのようなことを避けるために、人間には神経系の進化の歴史の中で、無限ループに対する恐怖心が植え付けられたのだと思われます。この恐怖心が無限に対する考察における障害となるのです。

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通貨としての神経細胞の活動電位

人間の体には、多くの神経が張り巡らされています。この神経こそが人間の情報処理を担っています。例えば痛みを感じるのは、末梢の痛みを感じる神経細胞が、その痛みを脊髄の神経細胞に伝えて、その信号が脳まで伝わるからです。熱いものを触った時、冷たいものを触った時の感覚もそうです。我々が眼が見えるのも、視細胞が受け取った光を信号に変え、その信号が脳まで伝わるからです。神経最奥の働きがなければ何も感じる事は出来ません。脳は神経細胞の集まりですが、感覚信号を受け取り、その信号を処理して運動神経出力します。例えば虎を見つけた場合であれば、逃げるなり、武器を持って戦う準備をするなりするのです。このような処理は、脳内で神経細胞の信号が処理された結果です。この投稿では、神経細胞に共通した信号の性質に関しての考察を行います。最初に神経細胞の模式図を示しました。

neuron

上に神経細胞を示しました。神経細胞は神経細胞体と樹状突起と軸索からなります。神経細胞が興奮すると信号は軸索を通ってシナプスと呼ばれれる部位に到達し、次の神経細胞に伝達されます。この信号の正体は電気信号で、活動電位と呼ばれます。神経細胞体には多くの樹状突起があって、多くの神経からの入力を受けます。神経細胞体は細胞外に比べてマイナスに荷電しています。それが樹状突起に他の神経細胞からの信号を受け取ると、部分的に電位がプラスになります。多数の入力が集中して閾値を超えると、神経細胞全体がプラスの方に荷電する活動電位が起こります。以下に活動電位を示します。

action

 

神経細胞が興奮すると、一時的に細胞外液よりもプラスに荷電し、短時間で元に戻ります。神経細胞はは「全か無の法則」の法則に基づいて興奮するので、常に神経細胞の活動電位は持続時間も電位も同じであり、常に全体が興奮します。この神経細胞の活動電位は減衰することなく軸索を伝わりシナプスに至り、次の神経細胞に伝達されます。

神経細胞の活動電位の最大の特徴は、それが常にほぼ同じ形であるということです。動物の種類による違いはなく、人間でも、ミミズでも、蜘蛛や昆虫でも同じす。また感覚神経でも運動神経でも同じであり、感覚の種類による違いもありません。この神経細胞の活動電位は、自然数と生命で述べたプラトンの1としての性質を持ちます。分割不能であり、お互いに等しく、不変です。このことは神経系の情報処理にとっては有利に働きます。例として屈筋反射を考察しますので、以下に屈筋反射の脊髄での神経回路を単純化して示します。

spine屈筋反射というのは、脊髄に中枢のある反射で、動物が侵害刺激に対して四肢を引っ込める反射です。例えば、指先に針が刺さったりしたら、思わずを指を引っ込めます。この反射は侵害刺激の程度の大きさに応じて、動作の大きさが変わります。例えば、誤って熱いストーブに指を触れてしまった場合。指を引っ込めるだけではなく肘の関節も屈曲し、肩の関節も動きます。更に体幹全体がねじれるような形になります。このように、火傷をするぐらいの刺激では大きな動作となります。感覚神経からの入力を受け取る介在ニューロンが、痛みや熱さなどの違った感覚の強さを比較し、それを動作の大きさに変換できるのは、活動電位がプラトンの1としての性質を持つからです。侵害刺激の程度を数値として受け取り、それを運動神経への指令とし出力するのです。この数値化は活動電位の大きな特徴です。しかし、感覚神経を通る活動電位は感覚としての性質も持っています。これは屈筋反射では介在ニューロンによって数値として受け取られますが、脳に届く信号は痛みとして感じられます。このあたりのことは感覚と神経細胞の活動電位で述べていますのでそちらを参考にして下さい。

この投稿では、神経細胞の活動電位がプラトンの1としての性質を持つ意味を考えます。人間は色々な感覚を受け取りますが、進める方向は一方向です。基本的には多くの要素を比較検討して行動を決めなければいけません。例えばマンモスを狩ろうとする場合、下手をすると死ぬかもしれない危険があるわけです。しかし、危険の程度と得れる肉の量を比較して、危険に見合う程の利益があるのかどうかを判断しなくてはなりません。このうように性質の違うものを比較する場合、何の性質も持たないプラトンの1が必要になります。

このような活動電位の性質は非常に通貨と似ています。例えば映画と音楽、遊園地、食事、飛行機の切符。これを比較するためには数値化するしかないのです。これは人間の認識の基礎が自然数であることによります。これは偶然の一致ではないのです。結論として、プラトンの1は我々の認識の基礎なのです。

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自然数と生命

1.はじめに

数とは何かということを考えます。数はあらゆるところで使われており、人間の生活には欠かせないものです。特に現代では、全ての分野でのコンピューター化が進み、あらゆるものが数値化されています。また、天体の運動のような自然の法則も数学的なもののように見えます。このように重要な数なのですが、数とは何かという問題はあまり論じられることがありません。
しかし、数は人間が考えだしたものであることは間違いなく、人間の脳の特徴によって規定されていると考えられます。現代では脳科学がかなり発達し、人間による数の認識に関しても研究が進んでいます [1] 。今こそ、数とは何かを論じ得る時と、私は考えます。数の用途の中で最も基本的なのは物の数を数えることです。しかし、無限に続く自然数の体系は文明の産物であり、より基本的なのは1対 1 の対応です。
例えば、未開の種族には 2 までしか数えられない種族も存在しますし、文明社会における幼児も少ししか数えられません。それでも1対1の対応が理解できれば生活にそう不自由はしません [2] 。また言語能力がない人間の乳児や、人間以外の動物に関しても、数の能力は備わっていることが実験的によって示されています [3] 。
こうした数の能力の基本は 1 対 1 の対応と考えられますが、それは 1 の基本的性質によって成立すると考えられます。そうすると 1 の概念そのものこそが最も基本的と考えられます。ほとんどの人間が1の概念を理解するということは、人間の脳は元から1の概念を理解するように作られていると思われます。そこで、1の概念の生物学的な実体は何かを追求してみます。

2.生命と1

この認識の基本となる 1 の概念について最も深く考えたのは古代ギリシャ人です。この 1 の概念についてプラトンは、「国家」 [4] の中で 1 について以下のように述べています。

この学問は強く魂を上方へ導く力を持ち、純粋の数そのものについて問答するように強制するのであって、目に見えたり手で触れたりできる物体の形をとる数を魂に差し出して問答しようとしても、決してそれを受けつけないという点だ。じっさい、君も知っているだろうが、この道に通じた玄人たちにしても、彼らは、 1 そのものを議論の上で分割しようと試みる人があっても、一笑に付して相手にしない。君が 1 を割って細分化しようとすれば、彼らの方はその分だけ掛けて増やし、1 が 1 でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心するのだ。また「そのひとつひとつは、どれをとっても互いにまったく等しくて少しの差異もなく、それ自身の内に何ひとつ部分というものをもたない」とも述べています。

プラトンは純粋な理想の1について述べています。しかし、純粋な1はこの世界には存在しません。例えば1個の石は、石としての性質を持っており、1そのものではありません。またイチという音声も、やはり音声としての性質を持っており、1そのものではありません。またコンピューターの電気信号は、感覚的な性質を持っていない分、プラトンの言う純粋な1に近いと思われますが、これも純粋な1ではありません。この考えを極限までおし進めると、純粋な1は物理的な性質を持たないことになります。しかし、そのようなものは現実の世界と相互作用することが出来ません。ですから現実の世界には純粋な1は存在しないのです。
プラトンの考えは理想論に過ぎて、純粋な1は現実世界に影響を与えることができないことになってしまいます。しかし、アリストテレスは、純粋な1の概念は現実に存在するものから抽象されたものであって、それが単独で存在することはないと述べています [5] 。これは非常にもっともな考えなので、アリストレスの考えを採用します。そうすれば、プラトンの1に近い性質を持っているものを探せばよいことになります。プラトンは1の性質として、感覚的性質を持たないこと以外に、以下の3つを挙げています。分割不能であること、お互いに等しいこと、変化しないことです。これらの3つの性質を持つ生物学的な実体を探します。
数の始まりには自然界にある物体を利用して1対1の対応によって数えたと思われます。小石は一般的です [6] 。そこで例として、子供たちがそれぞれに小石を集めて、個数を競い合っているところを想定して、具体的に小石を数えることを考えてみます。これはよく考えると難しい問題を多く含んでいます。最初に何をもって1個の小石とするかを規定する必要があります。まずは石の大きさだけに絞って考えてみます。極端に大きい石は、持ち運べないので除外されるべきであり、次に極端に小さい石も、砂粒と区別できなくなるので除外しなくてはいけません。ところが、その両方の境界をどこに定めるのかは、かなり恣意的な判断となり論争の元になる可能性があります。それを解決した後に、色や形態などの石による性質の違いをどうするかという問題もあります。さらに難しい問題として、使用している石が二つに割れてしまった場合、どうするかという問題もあります。全てについて多数の子供の間で合意を得るのはかなりの時間を要すると思われます。このように、厳密な意味で数えるというのは難しいのです。
それに対して数える対象として人間を選んだ場合は、上記のような困難はほとんどありません。小さくても大きくても一人となり、男性でも女性でも老人でも子供でも一人となります。病的状態を除くと、人間は自分自身が一人であるという意識を持っているのが普通であって、他の人間も自分と同じ一人と認識します。また一人の人間を分割すると、その人間は重傷を負い、体の一部を失って回復するか、死んでしまうかのどちらかです。元来シャム双生児であった場合以外は、人間を分割して二人になるということはあり得ません。すなわち怪我をしても病気をしても、生きている限りは一人であって、中間の状態はあり得ません。この人間を一人とする認識は強固なもので、生後かなり早い時期に生じるように見えます。最初は自分自身を一人と認識し、次に母親それから他の家族も、一人として認識するようになるのはないでしょうか。
これは他の動物も同様で、犬や猫等も分割不能です。しかし、脊椎動物のような高等動物は分割不能ですが、下等動物や植物はそうではありません。プラナリアのように分割されても、それぞれの断片が個体として再生する動物もあります。また、植物の場合であれば、株分けのように、個体を分割することは一般的です。さらに、高等動物の細胞であっても、個々に培養することが可能です。こうして考えると個体よりも細胞を生命の単位とするのが妥当です。

3.生命と遺伝子

プラトンの1の定義と生命を比較した場合。まず、第一に生命が分割不能であると言う点に関しては異論は少ないと思われます。 1個の細胞は通常は分割不能であって、多くの細胞が融合した合胞体でも1個の細胞に分割出来ます。この点は生命の非常に重要な特徴であると考えられます。第二のお互いに等しいという点と第三の不変であるという点ですが、生命の特徴のどの部分を抽出するかで結論は変わってきます。そこで生物間の違いと共通性を検討する必要が生じますが、そのためには遺伝子に関する検討が必要です。
生命の共通特徴を明らかにするためには、いろいろな生物の違いをもたらすものが何であるかをを考察します。いろいろな生物の特徴を決定づけるのは遺伝子であり、遺伝子の違いが生物の個体の違いの原因となります。ここで単純な生命として、細菌について考えてみます。細菌には多くの種類があり、非常に多様性があります。しかし、1個の細菌の子孫からなるコロニーについては、どの細菌も、外見的にも性質もほぼ同じで、お互いに等しいように見えます。これは1個の細菌の子孫はほぼ同じ遺伝子を持つからです。それに対して、種類の違う細菌は大きく異なった遺伝子を持ちます。
そして遺伝子の実体は DNA です。 DNA は 4 種類の塩基から構成されています。4種類の塩基とは、アデニン、チミン、グアニン、シトシンで、それぞれ A,T,G,C と略されます。これらの塩基の配列が遺伝子を構成します。遺伝子の実体は、この塩基が1列に並んだ塩基配列です。多くの遺伝子は蛋白質をコードしていて、3個の塩基の並びが1個のアミノ酸を表します。これを遺伝暗号、すなわちコドンと呼びます。この DNA の塩基配列の違いが、生物の各個体の違いになります。例えば、人間は人によって顔が違いますが、一卵性双生児はそっくりな顔をしています。これは一卵性双生児の DNA は同じ塩基配列をもつからです。また、親子や兄弟は顔が似ています。それは親子でも兄弟でも、 DNA の塩基配列の半分が共通であるからです。それに対して、人種が違えば顔も大きく異なります。これは遺伝子の違いが大きくなるからです。次に考える点は、このような遺伝子による生命の多様性の元にある、あらゆる生命に共通な特徴とは何か。特に生命が最低限備えるべき、生命の必要条件とは何かを考察します。

4.生命とエントロピー

生命の必要条件を考える場合、生命に必要な最小限の構造と、最低限の遺伝子を決定しなくてはなりません。そこで生命と普通の物質の違いについて、シュレーディンガーの「生命とは何か」 [7] から生命の特徴について引用します。

生命というものだけにある特徴とは何でしょうか?一塊の物質はどういうときに生きているといわれるのでしょうか?生きているときには、動くとか周囲の環境と物質を交換するとか等々「何かをすること」を続けており、しかもそれは生命を持っていない一塊の物質が同じような条件の下で「運動を続ける」だろうと期待される期間よりもはるかに長い期間にわたって続けられるのです。

それに比べると通常の物質は、速やかに平衡状態になる傾向があります。例えば運動する物体は色々な摩擦によって速やかに静止状態となります。また温度は熱伝導により一様になります。これを熱力学の第二法則またはエントロピーの法則 [8] と呼びます。
以下に熱力学の第二法則を例を挙げて説明します。まず、熱力学では、外部との物質とエネルギーのやり取り無い断熱容器内を孤立系 [9] と呼びこの中で実験を行います。この孤立系においては常にエントロピーが増大します。例えば、食塩が水に溶けて食塩水になる現象を考えます。この現象は、孤立系の中では不可逆です。食塩を十分量の水の中に入れて、断熱容器内に置いておくと、徐々に食塩は水に溶け、ナトリウムイオンと塩素イオンとなります。最終的には両者はは水の中に一様に分布して食塩水となります。この状態が平衡状態すなわちエントロピー最大の状態となります。
熱力学の第二法則によると、外部からの物質とエネルギーの出入りの無い系ではエントロピーは常に増大します。これを宇宙全体に適用し、全宇宙には外の世界との間に物質やエネルギーのやり取りがないと仮定します。そうすると、全宇宙は平衡状態に向かうことになります。例えば温度においては、熱い物体の温度は冷たい物体に移り、徐々に全ての物体の温度が一様になります。同様に電位差はなくなり、化学的なポテンシャルも一様になるので、全宇宙は熱死と呼ばれる、エントロピー最大の状態に向かうことになります。しかし、生命だけは熱力学の第 2 法則を免れているように見えます。これが生命の最大の特徴です。

5.遺伝子の容れ物

ここでは単純化するために、生命の範囲を細胞を単位とした生命に限定します。細胞は細胞膜によって外界と隔離されており、常に細胞内環境を一定に維持しています。これをホメオスタシスと呼びます。細胞内の温度、電解質濃度、 pH 、浸透圧等は一定に保たれます。さらに、細胞は一部が壊れても必ず自己修復しようとします。これが生きている細胞の特徴です。
それに対して、細胞が死ぬと細胞全体が急激に平衡状態に向かいます。これも非常に大きな生命の特徴です。そして、細胞には生きている状態か死んでいる状態しかなく、中間の状態はありません。さらに、以前に述べたように基本的に細胞は分割不能で、前にも述べたように合胞体でも分割すれば一個の細胞となり、一個の細胞は分割不能です。ですので、細胞が部分的に死ぬということはありません。
ここから生命の共通特徴を抽出することが可能です。最初にシュレーディンガーの「生命とは何か」 [7] の後書きを引用します。

この「私」とは一体何でしょう?この問題を深く立ち入って分析するなら、それはこいでんしというの単独なデータ(経験と記憶)を単に寄せ集めたものにほんのちょっと毛の生えたもの、すなわち経験と記憶をその上に集録したキャンバスのようなものだということに気づくでしょう。そして、頭のなかでよく考えて見れば、「私」という言葉で呼んでいるものの本当の内容は、それらの経験や記憶を集めて絵を描く土台の生地だということが分かるでしょう。

上の文章の中で、「私」を生命、「経験と記憶」を遺伝子に置き換えると、生命というのは遺伝子の容れ物と考える事が可能です。ここで、個々の生命の個体の相違点は遺伝子に起因しますので、全ての遺伝子を取り除いた純粋な容れ物としての細胞を考えます。
細胞には外界との境界が絶対に必要ですから、細胞膜は必須です。膜蛋白は遺伝子産物ですから取り除くと、脂質2分子膜だけが残ります。これを遺伝子の容れ物の原型と考えます。現在の生命は、そこに遺伝子と遺伝子産物が集積されたものと考えることが可能です。ここで重要なのは1885 年の「すべての細胞は細胞から生じる」というフィルヒョウの有名な言葉です。この言葉は今でも有効です。2010年に、クレイグ・ベンターが人口細菌を作ったという報告 [10] がありましたが、この研究では何もないところから細胞を合成したわけではありません。既存の細菌の細胞に、人工的に合成した DNA を導入しただけです。今でも、何もないところから細胞を作ることは出来ません。
つまり現在の細胞は、細胞の原型に遺伝子産物を追加したものと考えられます。この細胞の原型の持っていたと推測される特徴が細胞の共通特徴となります。それは分割不能である点と死ぬと生き返らないという点です。細胞は、全体がひとつのまとまりとして機能し、死ぬ時は細胞全体が死んでしまいます。そして細胞が死ねば、速やかに平衡状態に向かいます。今までに死んだ生命が生き返ったという記録はありません。さらに細胞の原型部分だけを抽出して、抽象的な遺伝子の容れ物として考えれば、遺伝子の容れ物同志は互いに等しいということも言えると思われます。このような細胞の共通特徴から、生命がエントロピーの法則を逃れる理由を考えることが出来ます。

6.死の不可逆性

エントロピーの法則を生命が逃れる理由は、生命の死が不可逆であることです。生命の死以外の現象は原理的には可逆的です。これは原子論を考えると理解しやすいのです。原子はどの方向にも自由に運動できますし、結合したり離れたりしますが、どの現象も可逆的です。このようにミクロのレベルでは可逆的であることは理解できます。次はマクロのレベルで考えます。常に確率の高い状態が平衡状態となりますが、非常に多数の分子が存在すると、平衡状態から非平衡状態への変化の確率が非常に低くなり、マクロのレベルでの非可逆な現象が生じます。食塩と水が食塩水として存在する状態は、ミクロのレベルでは食塩と蒸留水が別々に存在するよりも確率の高い現象です。しかしマクロのレベルでは、先程述べたように孤立系において食塩が水に溶ける現象は不可逆となります。ところがこの現象も、外部からエネルギーを加えると可逆的になります。例えば、食塩水を蒸留すれば食塩の結晶が残り、蒸発した水蒸気を冷却すれば蒸留水が得られます。このように、エネルギーさえ加えれば、孤立系では不可逆な現象でも逆転可能です。これは食塩が水に溶ける現象においては、ミクロのレベルでは不可逆な現象が含まれておらず、ただ確率の高い状態になっているだけであるから可能なのです。
生命にとって、遺伝情報を正確にコピーすることは非常に重要なことです。ところが大きな障害があります。それはエントロピーの法則です。そのため、どんな情報も永久に保存することは出来ません。あらゆる情報は平衡状態からのずれですので、どんな情報も時間が経つと失われます。これは DNA に関しても同じことで、常に DNA は化学的な修飾を受けます。つまり DNA を保存するだけでも困難です。それを正確にコピーするというのは、非常に難しいことなのです。にもかかわらず、生命は非常に正確に DNA をコピーします。生命による DNA のコピーは驚異的な精度に達していています。実際に、大腸菌の DNA の複製は 10^9 塩基につき1塩基のミスコピーしか有りません [11] 。しかし、エントロピーの法則がある以上、完全なコピーは不可能です。このように、DNA の複製には必ずミスがあります。そのため、コピーを繰り返せば、最終的に情報は完全に失われます。これはいかにミスコピーの確率が低くてもそうなります。これを生命に当てはめると、生命の遺伝情報は時が経つと劣化し、最終的には生命は滅亡することになります。ところが現実には、生命は滅亡するどころか進化しています。この現象はエントロピーの法則に反しているように見えます。
地球上でのほとんどの現象は、無制限にエネルギーを使えるなら可逆的です。ところが、生命の死だけは、絶対的に不可逆です。このような絶対的に不可逆な過程を含む現象にはエントロピーの法則は適用出来ません。生命の死が不可逆であることは、自然選択による進化の前提条件です。 DNA のコピーには 10^9 塩基に1個のミスコピーがありますので、常に遺伝子のコピーは不完全です。従って、もしも自然選択が存在しないものと仮定すると、時間が経てば全ての遺伝情報は失われます。例を挙げて説明します。大腸菌を最適な条件で培養すると、約 30 分に1回の割で分裂します。この速度で分裂すると、1年間に 17520 回分裂することになり、自然選択が存在しなければ、大腸菌の遺伝情報は急激に失われます。単純に計算すれば、5万年以内に遺伝情報の半分以上が失われることになります。 50 万年も経てば、 DNA の塩基配列は、ほとんど無意味な記号の羅列になります。このように、エントロピーの法則が存在するので、どんな情報でもコピーを繰り返せば、無意味になります。いかにコピーが正確でも、完全でない限りは、コピーを繰り返せば情報は失われます。従って、コピーの正確さを x として、コピーの回数を n とすれば以下の式が成立し、最終的には完全に情報が失われます。

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それに対して、自然選択がある場合には話は変わってきます。致命的な突然変異を持つ個体は死んでしまうからです。例えばある遺伝子が生存には決定的に重要で、その遺伝子におけるすべての突然変異が致死的である場合。その遺伝子に変異を持つ個体は全て死んでしまいます。つまり、生き残った個体は全てその遺伝子の正確なコピーを持っています。これは式( 1 )において、 x = 1 の場合に相当します。

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何回コピーしても、その遺伝子の正確なコピーが残ります。つまり、遺伝子の完全なコピーが永久に保存される事になります。

7.遺伝情報の保存

次に現実の例について考えます。有名な例として、真核生物のヒストン H4 という蛋白は 102 個のアミノ酸からなるペプチドですが、ウシとエンドウマメのヒストン H4 はたった 2 個のアミノ酸しか違っていません [12] 。これは驚くべきことなのです。動物と植物が分かれたのは約 10 億年前ですが、 10 億年の間には、大陸は移動しており、山脈は平地となり、地表の地形は大きく変化しました。地表に存在したもので、原型を留めたものはほぼ無いと思われます。その間にヒストン H4 のアミノ酸配列はほとんど変化していません。これはエントロピーの法則から考えると有り得ないことです。何故、生命はエントロピーの法則から逃れることが出来るのでしょうか。それは今まで考察したように、進化の原動力である自然選択が、生命の死という不可逆な過程を利用しているからです。今のところ、死んだ生命が生き返ったという記録はありませんし、過去にも無かった可能性が大きいと思われます。
ヒストン H4 について、さらに考察を進めます。もしも、あらゆるアミノ酸配列が許容されるなら、蛋白質を構成するアミノ酸は 20 種類ですので、アミノ酸配列は全部で 20^102 となります。これは 0 が 130 個以上もつく巨大な数になり、全宇宙の素粒子を集めたよりも大きな数になります。
この数字から考えると、ヒストン H4 関しては、ほぼ全ての突然変異が致死的であることが分かります。むしろ、ウシとエンドウマメのヒストンH4 のアミノ酸配列が異なっていることの方が、起こりにくい事象なのです。つまり、ヒストン H4 に関しては、アミノ酸配列を変化させる突然変異は、ほぼ全てが致死的なのです。これにより、ほとんどのミスコピーは不可逆的に除去されます。必然的に残ったコピーは正しいコピーとなります。
こうして、ヒストン H4 の各アミノ酸は自然数1としての性質を持つようになります。分割不能で、お互いに等しく不変なのです。これは自然選択によってもたらされたものです。次にDNAの各延期について検討すると、ヒストン H4 をコードする遺伝子の DNA 配列はアミノ酸が変化するような突然変異は除去されますが、アミノ酸が変化しない突然変異は許容されます。従って、アミノ酸配列を決定づける塩基のみがプラトンの1としての性質を持ち、その他の塩基はそのような性質は持ちません。

8.生命とデジタル情報

ここまでの考察であきらかなように、生命の遺伝情報はデジタル情報です [13] 。そしてドーキンスは生物を遺伝子の乗り物 [14] と言いましたが、ここでは原始的な動けない細胞の原型について考察したので、細胞のことを遺伝子の容れ物と呼びました。この遺伝子の容れ物の性質こそが自然選択を可能にして、エントロピーの法則に抵抗して生命が進化することを可能にしたのです。
これまでに述べたように遺伝子の容れ物に必要な性質は、分割不能であること、お互いに等しいこと、死ぬと生き返らないことです。脂質2分子膜だけの原始的細胞膜でもここまでは可能です。しかし、遺伝子が無ければ細胞を複製することは不可能です。遺伝子の力で細胞は複製可能となり、その時点から進化は始まるのです。進化が始まれば、脂質2分子膜に膜蛋白が加わり、細胞は遺伝子の乗り物に相応しい物になります。この時点で細胞膜には多様性が生じます。まとめると、自然選択に必要な生命の性質は、分割不能であること、死ぬと生き返らないこと、分裂して自己の複製を残すこととなります。そして、デジタル情報の長期保存、進化には自然選択が必要です。
デジタル情報は、自然数から構成されますが、自然数は自然数1の集合です。必然的に自然数1はプラトンの云うように、分割不能で、お互いに等しく、不変でなくてはいけません。ただ、プラトンの云う純粋な1は存在し得ないので、普通のデジタル情報は不完全です。しかし、自然選択によって、生存に重要な DNA は純粋な1に近い性質を持つようになります。これが自然数の生物学的実体であり、生命は自然数で世界を認識するものと考えることが出来ます。

参考文献

[1] Stanislas Dehaene. The number sense: How the mind creates mathematics. Oxford University Press, New York, USA, 2011.
[2] Brian Butterworth and Stanislas Dehaene. The mathematical brain, volume 2. Macmillan London, London, UK, 1999.
[3] Keith Devlin. The Math Instinct: Why You’re a Mathematical Genius (Along with Lobsters, Birds, Cats, and Dogs). Thunder’s Mouth Press, New York, USA, 2005.
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[5] アリストテレス著 出 隆訳 . 形而上学. 岩波書店, 東京, Japan, 1959.
[6] ミッドハット・ガザレ著 小屋良祐訳 . <数>の秘密 : 記数法と無限. 青土社 , 東京 , Japan, 2002.
[7] E. シュレーディンガー著 岡 小天、鎮目 恭夫訳 . 生命とは何か :物理的にみた生細胞 . 岩波書店 , 東京 , Japan, 2008.
[8] 「系 ( 自然科学 ) 」( 2014 年 3 月 26 日 ( 水 ) 13:36 の版)『ウィキペディア日本語版』. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%BB_(%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%A7%91%E5%AD%A6).
[9] 「エントロピー」( 2015 年 5 月 6 日 ( 水 ) 02:07 の版)『ウィキペディア日本語版』. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%94%E3%83%BC.
[10] Daniel G. Gibson, John I. Glass, Carole Lartigue, Vladimir N. Noskov, Ray-Yuan Chuang, Mikkel A. Algire, Gwynedd A. Benders, Michael G. Montague, Li Ma, Monzia M. Moodie, Chuck Merryman, Sanjay Vashee, Radha Krishnakumar, Nacyra Assad-Garcia, Cynthia Andrews-Pfannkoch, Evgeniya A. Denisova, Lei Young, Zhi-Qing Qi, Thomas H. Segall-Shapiro, Christopher H. Calvey, Prashanth P. Parmar, Clyde A. Hutchison, Hamilton O. Smith, and J. Craig Venter. Creation of a bacterial cell controlled by a chemically synthesized genome. Science, 329(5987):52{56, 2010.
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[12] 木村 資生 . 生物進化を考える . 岩波書店 , 東京 , Japan, 1988.
[13] Richard Dawkins. 遺伝子の川 . River out of Eden: a Darwinian view of life. 草思社 , 東京 , Japan, 1995.
[14] Richard Dawkins. 利己的な遺伝子 . The selfish gene. 紀伊國屋書店 , 東京 , Japan, 増補新装版 edition, 2006.5 2006.

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マイナスかけるマイナスはなぜプラスか

はじめに

マイナスの数の計算規則は、中学校で教わりますが、普通の人はあまり納得できなかったと思います。特にマイナスとマイナスをかけてプラスになるのは、どう考えてもおかしいと思うのが普通です。そこで、「 マイナスかけるマイナスはなぜプラスか 」というページで、負の数の計算規則について考察しましたが、説明が詳細すぎる部分があったので、このページを作りました。

このページでは出来るだけ簡略に説明します。最も基本的な数は自然数ですから、ここでは自然数だけを用いて、負の数の計算規則を導きます。そのためには、任意の正の数nを引くことと、負の数nを加えることを同じ事と定義します。

このように任意の正の数nを引くここと、負の数nを加えることは同じ事です。

負の数の計算規則

具体的な例を用いて負の数の計算規則を導きます。最初に、1個のケーキが1枚の皿の上にあるとします。

左辺の前の項は、1枚の皿の上のケーキの数を表します。左辺の後の項は皿の枚数を表します。右辺は合計のケーキの数を表します。

(1皿あたりのケーキの数)X(皿の数)=(ケーキの数)

次に単純な例を考えます。1枚の皿の上に2つのケーキがあるとします。ケーキの数は全部で2つです。

もしも私がケーキを1つ取ったとします。残ったケーキは1つです。

上の式に分配法則を適用しても答えは1です。

2と1の差は1なので、以下の式が成立します。

次に、別の単純な例を考えます。2つの皿があって、それぞれに1つずつケーキが乗っているとします。ケーキの数は全部で2つです。

もしも私が1つの皿を取ったとします。残ったケーキは1つです。

上の式に分配法則を適用しても答えは1です。

2と1の差は1なので、以下の式が成立します。

結論として、マイナスかけるプラスはマイナスで、プラスかけるマイナスはマイナスです。次に、より複雑な例を考えるので図1に示します。

図1

2つの皿があって、それぞれの皿の上に2つずつケーキが乗っています。ケーキの合計は4つです(図1-1)。

次に、もしも私がそれぞれの皿から1つずつケーキを取ったとします。残ったケーキは合計2つです(図1-2)。

さらに、私が1つの皿を取ったとします。残ったケーキは1つです(図1-3)。

上の式に分配法則を適用しても答えは1です。

上の式を整理すると次のようになります。

結論として、マイナスかけるマイナスはプラスです。

幾何学的証明

算数では掛け算は足し算の繰り返しで十分ですが、数学では掛け算には面積を表すという重要な役割があります。農耕とともに文明は始まりますが、農耕には面積の計算が重要です。文明の始まりと数学の始まりを同時とすれば、最初の数学の目標は面積の計算と考えられます。基本的な面積の定義は、長方形の長さかける幅で面積になります。この定義を用いて、幾何学的にマイナスかけるマイナスはプラスを導きます。

図2に、一辺の長さaの正方形ABCDを示します。AEの長さをxとし、HCの長さをyとすると、黄色の長方形EFHDの面積は(a-x)(a-y)となります。

図2

次に水色の長方形FGCHを移動させて、点Hを点Eの上に、線分HFを線分EGの上に持って行きます。その結果は図3のようになります。

図3

黄色の部分の面積は黄色の長方形C’LCDの面積と黄色の長方形F’GLG’の面積の合計になります。長方形C’LCDの面積は以下の式で表されます。

長方形F’GLG’の面積は以下の式で表されます。

黄色の部分の面積は図1の黄色の長方形EFHDと等しいので、以下の式が成立します。

上の式に分配法則を適用します。

左辺と右辺を比較します。

負の数の計算規則が導かれました。

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数直線の切断

1. 線の変換

ユークリッド空間は脳内にしか存在しないので、 数論とユークリッド幾何の結合 でのべたように、幾何学を現実に適用するには、どうしても画素を基本とする考え方が必要です。そこで重要性を増すのは ビットマップ画像 です。 ユークリッド幾何の構成 で述べたように、コンピューターのビットマップ画像は単位正方形から構成されています。そのため曲線はギザギザになりますし、直角三角形の二辺をx軸y軸に平行にすれば、直角三角形の斜辺はギザギザになります。ところが十分に小さい単位正方形を用いれば、人間の眼には単位正方形は見えなくなります。例えば、デジタルカメラの写真は正方形の画素から構成されているはずですが、高解像度のデジタル写真は、人間の眼ではアナログの銀塩写真とは区別できません。  人間が眼球の 網膜 で光を検出した時点では画像は画素から構成されています。 従って ユークリッド幾何の構成 で述べたように、ユークリッド幾何はビットマップ画像から画素を隠して構成されます。網膜の段階ではビットマップ画像であって、画素と画素の境界に幅0の線は存在しません。どう考えても、幅0の線や幅0長さ0の点は人間の神経系が創りだしたものです。ところが特に幅0の線は、現実に存在しているかのように見えます。図1に視力検査で用いられる ランドルト環 を示しました。ランドル環の黒いリングの切れ目の部分に注目します。白い切れ目と黒いリングの上下の境界線は、赤で強調してありますが、幅0の線のように見えます。しかし、それは我々の神経系が創作したものであって、我々の眼は本当は幅0の線では無く、切れ目の白い画素を認識しているのです。それは視力検査によって明らかになります。徐々に小さなランドルト環を見せられるに従って、切れ目の白い画素を認識していると意識するようになります。さらに小さなランドルト環を見せられて、切れ目の白い画素が認識できなくなると、ランドルト環は完全に黒いリングに見えます。

 

 

図1.ランドルト環

 

 このように幅の無い線は我々の神経系の創作物です。ここでユークリッドの定義する幅0の線と、ビットマップ画像における直線の関係につて考察します。図2に幅0の直線と画素の関係を示します。 ユークリッド幾何の構成 で述べたように、三次元物体のエッジはビットマップ画像の画素と画素との境界線に対応します。図2の上段に白い画素と黒い画素の境界線として幅0の線分を赤で示しました。脳で画素が隠されるので、我々の目には連続的な空間における幅0の線のように見えます。それを図2の中段に赤い線で示しました。しかし、ランドルト環に関する考察で述べたように、幅0の線は白い画素と黒い画素の両方が認識されないと見えません。そうであれば、黒い画素の直線で代用する方が効率的です。これを図2の下段に示しました。

 

 

図2.線の変換

 

実際にユークリッド幾何を学習する場合、幅0の直線を鉛筆で書いた幅のある直線で代用します。勿論、鉛筆で書いた直線は画素から構成されます。芯の太さがあり、使う鉛筆によって画素の大きさは決定されます。さらに人間の目の 分解能 は約0.1mmですので、それより小さな画素は用いることが出来ません。それでも、普通の人は何の問題も感じません。おかげで紙と鉛筆のユークリッド幾何が成立するのです。これは厳密には間違っていますが、誰も間違いとは認識しません。人間の認識の仕方が、小さな誤差は無視するようになっていると思われます。  これが線画の原理となっています。西洋画におけるデッサンは、三次元物体の輪郭を線で描く事が基本となります。東洋の絵画でも同様であり、現代の漫画も、原始時代の アルタミララスコー の洞窟壁画も同じです。これは人間の三次元物体の形の基本的認識方法の一つと思われます。ユークリッドは「線とは幅のない長さである」と定義しています。それを人間は長さも幅もある線に変換しているのです。このように通常の画像は自然数1に対応する画素から構成されているのです。人間の描いた画像は全て有限の画素から構成されています。また人間は有限の画素しか認識できません。このように我々の認識する現実は、有限の自然数から構成されているのです。

2. 自然数の有限性

ここまでに述べたことで明らかなように、生命の認識はあくまでも自然数1を基本とします。そこで自然数1を基に数学を構築することを考えます。自然数1から一般の自然数を構成する方法がそのまま自然数の定義になります。自然数の定義として、ペアノ自身によって記述された ペアノの公理 を記載します。

1 は自然数である 任意の自然数 a に対して、a+ が自然数を与えるような右作用演算 + が存在する もし a, b を自然数とすると、 a+ = b+ ならば a = b である a+ = 1 を満たすような自然数 a は存在しない 集合s が二条件「(i) 1 は s に含まれる, (ii) 自然数 a が s に含まれるならば a+ も s に含まれる」を満たすならば、あらゆる自然数は s に含まれる。  これは広く認められた自然数の定義です。自然数を定義しようとすれば、どうしてもペアノの定義と似たものになります。そして、五番目の数学的帰納法については、普通の数学では認めるしかありません。そうすると必然的に無限大の自然数は存在しないことになります。以下に数学的帰納法による証明を記載します。

1は有限である。 もしも任意の自然数kが有限であれば、自然数k+1は有限である。 任意の自然数nは有限である。  つまり、どんな自然数でも有限であるとなります。こうして有限の自然数のみを対象とする数学が構築されます。この段階の数学はコンピューターの扱える範囲の数学となります。本質的にコンピューターは、自然数または自然数の比しか扱えません。どんな有理数でも扱えますが、実用的には有限の桁数の小数を用います。ある意味では、この段階で数学は十分であるとも考えられます。ギリシャ以外の数学はこのような数学であったと思われます。例えばバビロニアの数学では、既にピタゴラスの定理は知られていたと思われます。ところが2の平方根などは、近似値を計算して事足れりとしていたようです。メソポタミア人には無理数が分数で表せるかどうかには興味がなく、実用に役に立つかどうかが重要であったようです。実用を考えた場合、必要な精度まで近似値が計算できれば十分で、ある数が無理数であるか有理数であるかは重要ではありません。

3. ユークリッドの「数」

自然数によって実数を定義するために、まず最初にユークリッドによる数の定義を見てみます。

第7巻 定義

  1. 単位とは存在するものおのおのそれぞれがそれによって1とよばれるものである。

  2.  数とは単位からなる多である。

この定義について説明します。このようにユークリッドは数を自然数に限定します。これは現代になってみると卓見と言えます。自然数による世界の認識で述べたように、本質的にコンピューターは自然数しか扱えないので、実用数学では自然数または簡単に自然数に変換できる小数を扱います。この事実はコンピューターの出現によって明確になっただけで、昔からそうだったのです。普通の人にとっては円周率は3.14で問題有りません。これは中学校までの数学では十分すぎるぐらいです。例えば、直径10cmの円の円周は314mmとなりますが、製図に慣れない人が描いた場合、すぐに1mmや2mmの誤差を生じます。上手な人でも、芯を十分に削ってもHBの鉛筆の線の幅が約0.5mm程度なので、これ以上の精度は必要無いのです。人間が鉛筆で線を描く場合、芯の大きさの画素を並べて線を構成していることになります。より精度を求めるなら、製図用のペンを用いることになりますが、線幅0.1mm程度が限界です。だからコンピューターの出現以前は、精度が低かっただけで、実質的にはビットマップ画像を用いていたのです。  コンピューター時代になると、紙と鉛筆の幾何学より遙かに精度が上がります。具体的には、一般に用いられている倍精度の浮動小数点数で、10進法で15桁程度の有効数字となります。ただし、この精度は現代では古いパソコンで簡単に得られるレベルなので、より高精度な計算が必要なら、もっと精度を上げることは出来ます。例えば人工衛星の軌道計算でも、円周率の値は小数点以下30桁程度の近似値を使用しています。これらの数は簡単に自然数に変換できます。例えば小数点以下30桁の小数であれば、1030倍すれば自然数に変換されます。このように現実に使用可能なのはユークリッドの定義した数、すなわち自然数だけなのです。現代ではコンピューターがありますから、あらゆる有理数は簡単に自然数に変換できます。  このように現代ではユークリッドの数の定義の意義は増していると考えられますので、この定義を用いて実数を定義します。ここで通常の数と区別するために、ユークリッドの定義する数を「数」と表します。まず最初に図3に、0.1刻みで目盛りをつけたユークリッド平面における数直線と画素を重ねて示しました。この数直線は負の数を含まず、原点から正の方向に伸びる数直線です。画素は灰色の一辺の長さが0.1の単位正方形で示しています。赤でユークリッド平面における数直線を示します。ここにはπの近くだけをピックアップしてあります。0.1は単位正方形の一辺の長さを表しますが、単位正方形は自然数1としての性質を持っています。自然数による世界の認識で述べたように、自然数1はプラトンの三原則を満たします。そうすると単位正方形の一辺である0.1は、必然的にユークリッドの単位の定義を満たします。

 

図3.数直線

 

 そう考えると、単位というのは動かしがたいもの、何となく高尚なものと思うかも知れませんが、それは違います。ユークリッド平面をデジタル化する時に単位は必要になりますが、デジタル化はあくまでも実用性が目的です。自分が便利なように単位を決めて良いのです。この場合の単位というのは、ビットマップ画像の画素に相当しますが、画素の大きさは目的に応じて比較的自由に選択できます。画像を道端の看板として使うのか、証明写真なのか、あるいは精密機械の設計図なのか。必要な精度に応じて単位の大きさは選択可能です。  こうして決められた単位は二重の意味を持つことになります。一つは分割不能な自然数1であり、もう一つはユークリッド平面上の線分の長さです。上の例では0.1は二重の意味を持っています。それを利用してπを近似することが可能です。この例では赤い目盛りを用いて、ユークリッド平面上の線の長さを比較することによって、πを3.1と3.2の間に挟むことが出来ます。  ここでユークリッドの「数」を有理数にまで拡張します。この例における小数は分母10の分数ですから、単位1/10の「数」と見なすことが可能です。次に一般の有理数について考察します。それには単位の大きさを1/nとします。その上で単位1/nの「数」を大きさの順に並べれば、隣接する二つの「数」でπを挟むことが出来ます。以下の式(1)は単位1/10の「数」の例、式(2)は単位1/nの「数」の場合を表します。なお、式(2)のm,nは自然数を表します。

 式(2)についてnを増加させると、πを挟む「数」の間隔はいくらでも狭めることが出来ます。この方法を繰り返すと、あらゆる「数」をπより大きいものとπより小さいものに分けられます。このような分割を引き起こすものとしてπを定義することも出来ます。この定義は デデキント切断とほぼ等価です。相違点は、デデキントは数直線上の点を数と見なしていましたが、この定義では「数」は単位から構成された線分の長さです。以下の式(3)のCUT(1/10,π)は単位が1/10の「数」のπによる分割を示しました。単位が1/10の「数」はπより大きい「数」の集合とπより小さい「数」の集合に分けられます。式(4)のCUT(1/n,π)は単位が1/nの「数」のπによる分割を示します。「数」は単位からなる線分の長さを表します。例えば「数」31/10は単位1/10の31倍の長さの線分となります。1/nもm/nもそれぞれ線分の長さを表しています。またπそのものは長さπの線分を表しており、点πで数直線を切断して生じる線分を表します 。一般の無理数αもπと同様です。単位を1/nとした場合の「数」の無理数αによる切断は、式(2),(4)のπをαに入れ替えることによって、式(5),(6)に示されます。1/n<αであれば、アルキメデスの公理により、必ず単位1/nの「数」でαを挟むことが出来ます。ここでnを無制限に増加させると、任意の有理数をαより大きいものと小さいものに分けることが出来ます。これはデデキントの切断と等価です。ここで任意の無理数αと、αより大きい任意の無理数βを考え、両者の差をεとします。これを式(7)に示します。アルキメデスの公理により、1<nεとなる自然数nが存在します。この不等式の両辺をnで割ると式(8)となります。ここでnを十分大きくとると、式(9)(10)に示したようにαとβを別々の「数」で挟むことが出来ます。ここで、j,k,nは自然数を表します。

このように任意の異なる二つの無理数は必ず別の「数」のペアで挟むことが出来ます。しかも単位である1/nはnを増加させることによって、いくらでも小さく出来ます。このように「数」によって無理数を任意の精度で近似することが出来ます。逆に無理数を、任意の単位1/nについて「数」を切断するものと定義することも出来ます。この定義はデデキントの切断と等価です。さらにデデキントは「 連続性と無理数 」( Continuity and Irrational Numbers )で異なる二つの切断の間には、必ず二つ以上の有理数が存在すると述べています。つまり無理数と無理数の間には、必ず二つ以上の有理数が存在するのです。これは無理数の総数は有理数の総数を超えないことを意味します。そして有理数は自然数のペアと考えられるので、世界は自然数で記述可能ということになります。さらに自然数は常に有限ですので、いくらでも大きい自然数は有り得ますが、どんな自然数も有限です。

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数論とユークリッド幾何の結合


1.アリストテレスの輪のパラドックス

 ユークリッド幾何を勉強する場合、最初に驚くのは点に大きさがないことでしょう。その上に線には幅がありません。誰もが、そんなことはあるはずがないと思うのが自然です。ところが幾何学を勉強させられるうちに、いつの間にか納得してしまうのです。私自身もユークリッド幾何を知った時には、証明の見事さに魅せられて夢中になりました。ユークリッド原論を初めて手にした時には、厳密な論理に感心し、その体系の美しさに圧倒されました。その頃になると、最初の疑問は忘れてしまいました。
次に勉強するのがデカルト座標です。これを知った時にも大きな驚きがありました。ユークリッド幾何での証明はかなり難しく、特に補助線の引き方にはかなりの技巧を要します。ところが図形を座標で表せば、補助線の必要はなくなります。デカルトの解析幾何を用いれば、式の計算で答えは出ます。図形が式で表されるとは、何と素晴らしいアイデアなのだろうかと思いました。こうなると点には大きさがないのは当然となります。そうすると、例えばy=X2という式が放物線を表すのは当たり前のように思います。しかし本当は、ユークリッド幾何と解析幾何には、おかしな点がたくさんあるのです。最も大きな問題は、ユークリッド幾何の構成で述べたように、大きさの無い点から長さのある線は構成され無いという事実です。
このようにユークリッド幾何には大きな欠点があり、デカルトの解析幾何もそれを引き継いでいます。それは純粋数学の範囲で考える限りは目立ちません。ところが数学を物理学に適用しようとすると多くの困難に突き当たります。そのような困難を解決するために微積分が開発されと思われます。微積分を開発するには、どこかで論理よりも現実を優先する考え方が必要です。
古代において、アルキメデスは数学を物理学に適用しようと試みましたが、アルキメデス自身の死によってその試みは中断します。さらにローマ帝国の崩壊の後、アルキメデスの業績は長く忘れられていました。それを受け継いだのがガリレオ・ガリレイです。ガリレオも同様に、数学を物理学に適用しようとしました。そのためには、数論と幾何学の統合が必要です。アルキメデスの著作の多くは失われていますが、ガリレオの考えの内容については今でも知ることが出来ます。特に新科学対話に出てくるアリストレスの輪のパラドックスに関する考察は非常に面白く意味も深いので、そこを出発点として数論とユークリッド幾何の結合を試みます。
図1にアリストテレスの輪のパラドックスを示します。中心が同じで、お互いに固く結合した大きい円と小さい円があります。大きい円が一回転すると、同じように小さい円も一回転します。このときに大きい円の円周上の一点Bの移動距離を考えます。点Bは大円の円周を一回転して点Fに到達しますから、直線BFは大円の円周に等しくなります。同時に点Cは点Eまで移動しますから、小さい円の円周は線分CEと等しくなります。明らかにBF=CEなので、小さい円の円周は大きい円の円周と等しくなります。この議論は任意の大きさの同心円に適用出来ますから、全ての円の円周は等しいとなります。これがアリストテレスの輪のパラドックスです。


図1.アリストテレスの輪のパラドックス

 ガリレオは、このパラドックスに解決策を与えています。円を正多角形に変えてみます。どんな正角形でも良いのですが、図2に正方形の場合を示します。正方形ABCDと一辺の長さが半分の正方形EFGHがあり、二つの正方形の中心が同じで、両者は固く結合しているとします。最初に点Bを中心に大きい正方形を回転させると、辺BCが底辺になります。順番に点B,C,D,Aを中心に回転させると、最終的に一回転して底辺ABに戻ります。この間に底辺に平行な直線には、小さい正方形の辺は半分しか接しておらず、4カ所の空白を含みます。
この議論は多角形の辺の数をいくら増やしても成立するので、100,000角形でも成立します。従って小さい正方形を回転させると、100,000個の空白が生じると、ガリレオは述べています。正方形を正100,000角形に代えて同じようにすれば、半分の大きさの正100,000角形は半分しか直線に接していないのです。人間の眼では正100,000角形は円と区別できないので、この場合は円を正多角形で近似した方が、現実に近いモデルが得られるということになります。よく考えると、現実に円と直線が大きさの無い点で接しているということは有り得ません。むしろ正多角形の一辺が直線に接していると見なす方が現実に近いと思われます。


図2.ガリレオによる解決策

 これで見事に解決されたように思いますが、現実に近いモデルである正100,000角形を、完全に理想化されたユークリッド平面上で円に戻してみると、とても空白があるようには思えません。図3を見て下さい。大きい円周上の任意の点Pから中心点Aまで線分を引き、小さい円と線分の交点をQとします。点BからPまでの円周の長さに線分BPの長さは等しいとすれば、円周上の任意の点Pは線分BF上の1点Pに対応します。すなわち、大きい円の半径PQAは線分BFと直交する線分PQAに対応します。
半径PQAと線分PQAは対応します。すなわち、PとQとAは1対1対1に対応します。つまり、大きい円の円周上の点の数と、小さい円の円周上の点の数、中心点Aを分割して生じた点の数は全て等しいのです。点Aは元々1点ですから、線分AD上の点は全て集めても0です。同様に線分BFおよび線分CE上の点を全て集めても長さは0です。このように考えると、ユークリッド幾何の構成で述べたように、点から長さは構成出来ないということが分かります。幅のない長さは線ですので、点から線は構成出来無いとなります

図3.点と長さの関係

 やや煩雑になりますが、その理由を考察します。点から線を構成しようとすれば、必ず隣接する点が必要となりますが、隣接する点は存在し得ません。もしも隣接する2点間の距離が0であれば、2点は1点になってしまいます。もしも隣接する2点間に距離があれば、そこには線があることになり、線は無限分割可能なので、隣接する2点間には無限の点があることになります。つまり隣接する2点は有り得ません。2点の間には必ず長さ、すなわち線が存在します。そうすると点は線の端になります。
ここで点を認識することを考えます。単独の孤立点は幅も長さも0なので、検出する方法がありません。大きさ0の孤立した点は存在していないと考えるべきでしょう。それに比べると、線の端としての点は検出可能ですので、存在していると見なすことが出来ます。こう考えると、大きさ0の点は最初から存在すると考えてはいけないとなります。むしろ線を切断すると線の端として生じると考えるべきです。線分の1回の分割で、2個の点が生じます。さらに複数の線分の端点となっている点は複数の点に分割可能です。例えば円の中心点は、任意の本数の半径の端点となりますので、任意の個数の点に分割可能です。元々は1点であっても、線の切断によって複数の線の端点になります。同様に任意の長さの線分は、任意の回数分割可能です。すなわち任意の長さの線分からは任意の個数の点が生じます。つまり点は可能性として存在しているとした方が合理的です。
そうなるとやはり、ユークリッド幾何を数論と結びつけるには、どうしても画素の存在を前提として理論を構築する必要があります。ユークリッド幾何の構成で述べたように、ユークリッド平面はビットマップ画像から画素を隠して得られたものであるから、画素を前提とする必然性があります。

2.幾何学的原子の導入

 元々ギリシャ人は、図形は自然数1に対応する画素から構成されると考えていました。ここで画素の形を考えてみます。図4の黒い点はデジタルカメラの二つの光の検出器を表します。この二つの黒い点が画素の中心となりますが、両者から等距離にある地点は中央の黒い直線となるので、必然的に画素と画素の境界線は直線となります。これは人間の網膜の視細胞もに適用することが可能です。視細胞の中心点を黒い点とすると、等しい距離にある地点は直線となります。


図4.画素と画素の境界線

 画素と画素の境界線が直線で、画素が一様に分布しているとすると、画素の形は正多角形となります。平面を埋め尽くすことが出来る正多角形は正三角形、正方形、正六角形の三種類しかありません。他の正多角形を用いてもビットマップ画像は構成出来ますが、単位正方形はコンピューターで広く用いられていて、数学の全ての分野でも一般的です。単位正方形は自然数1に対応するので、単位正方形と他の図形の関係から、数論とユークリッド幾何の対応を考えます。
まず単位正方形を集めて長方形を作ります。ユークリッド幾何の構成で述べたように、単位正方形で構成された長方形の面積は、長さかける幅となります。こうして単位正方形で構成された長方形と数の対応は明確になります。次に辺の長さが有理数の長方形に関しては、有理数は自然数の比と考えることができます。この場合も長さかける幅で面積が求められるとして問題有りません。さらに長方形を対角線で二等分すると直角三角形になります。後に述べるようにあらゆる直線図形は直角三角形に分割出来るので、直角三角形は数論とユークリッド幾何を結合する役割を果たします。
数論と幾何学を結びつけるのに大きな障害となるのが無理数です。無理数の存在を説明するために、古代ギリシャ人は多くの理論を考えました。その中で有力な理論の一つとして、デモクリトス原子論があります。原子論によれば無理数は存在可能であり、しかも画素に近い分割不能な原子が存在します。さらに積分の創始者アルキメデスによると、デモクリトスは、原子論を幾何学に適用して、円錐の体積が円柱の1/3であるという結果を得ていたとあります。
デモクリトスの著作は断片のみが残っていて、多くは失われていますがアリストテレス著作から知ることが出来ます。原子論では世界は空虚と分割不能で変化しない原子からなり、原子には色々な形や色々な大きさの物があり、無限の種類があるとなります。原子は常に運動していて、結合したり分離したりしています。原子の形には直線も曲線もあるとなりますが、これは空虚の存在を認めているからです。これはかなり現実に合致していて、現代の視点でも良くできた理論です。
しかし、このままでは幾何学には適用できません。幾何学の世界には空虚が存在しないからです。幾何学に適用するためには、原子は無限の種類のある画素となります。幾何学の世界では画素は静止していて、図形は画素で埋め尽くされていなくてはなりません。そうすると、画素と画素の境界線は直線になります。原子論における画素は、一般的な同じ形で同じ大きさの画素とは異なるので、通常の画素と区別するために、原子論における画素を幾何学的原子と呼ぶことにします。
第一に幾何学的原子は、数論との結合を考えると、直線から構成されなくてはいけません。その上で、あらゆる直線図形を構成出来なくてはなりません。この条件に合致する図形は三角形です。図5-(1)を見てください、あらゆる直線から構成される図形は三角形に分割出来ます。次に図5-(2)に示したように、三角形は直角三角形に分割出来ます。直角三角形の面積は非常に簡単に計算できるという利点があるので、直角三角形を図形の原子と考えます。そして無限の種類の直角三角形が幾何学的原子として存在するとします。このような幾何学的原子は、解析学との相性がよいのです。合同な直角三角形を二つ合わせると長方形になります。長方形は積分の基本的図形となりますし、直角三角形は微分の基本的図形です
例えば図5-(3)に示したように、二等辺直角三角形ABCは、多数の小さな二等辺直角三角形に分割出来ます。この例では、AB:BC:CA=√2:1:1となります。このように原子論を幾何学に適用すれば、無理数は存在可能になります。何よりも、ユークリッドのように大きさの無い点を基本概念としたのでは、図形どころか平面自体が構成出来ません。その点、幾何学的原子からは直線図形と平面自体は簡単に構成出来ます。しかも長さと幅をかけて面積になる必然性があります。


図5.図形の原子としての直角三角形

 あらゆる形の直角三角形を幾何学的原子と考えますが、面積0の直線は幾何学的原子に含みません。このようにして直角三角形を幾何学的原子として、あらゆる直線図形を構成することが可能です。直角三角形の面積は簡単に計算出来るので、どんな直線図形の面積でも計算できます。これが画素から自然に連続的なユークリッド空間を導く方法です。

3.直線による円の近似

 人間にとって曲線を認識するのは意外に困難です。ヒューベルウィーセルが明らかにしたように、脳の一次視覚野単純型細胞で認識されるのは直線だけなのです。だから人間の脳で、画素を消して構成される図形は、最初は直線から構成されているのです。そして曲線はより高次の視覚野で構成されます。人間の作った多くの物が、直線から構成されているのは当然なのです。例えば箱、部屋、机、本、ノート、テレビ等々です。
次の問題は、ユークリッド幾何の構成で述べたように、点から線は構成出来ないので、ユークリッド平面で曲線を構成するのは不可能であるということです。曲線を定義するには、現代では一個の点の位置を方程式で決めて、曲線は点の集合として定義するのが自然です。例えば円であれば中心から等しい距離にある点の集合となります。例えば原点中心の半径1の円を式で表せばx2+y2=1となります。このような方法では長さが構成できないので、曲線は構成できません。無理に曲線を点の集合として定義すれば、アリストテレスのパラドックスで示したように、あらゆる円周の長さは等しくなります。つまり曲線の長さという概念が成立しなくなるのです。このような困難を切り抜けるため、ユークリッドは原論(Elements)で以下のように円を定義しました。

第7巻 定義
15. 円とは一つの線にかこまれた平面図形で、その図形の内部にある1点からそれへひかれたすべての線分が互いに等しいものである。

最初に線という言葉を出し、その線の性質として円を定義する。これは非常に巧妙な方法です。このやり方はユークリッドの常套手段で、面から線を定義し、線から点を定義したのと同じやり方です。最初に曲線が存在するものとして、そこから曲線上の点の性質を決めていくという手順になります。一見すると上手く切り抜けたように見えますが、これでは曲線の長さは定義できません。
それどころか、ユークリッドは自己矛盾に陥っています。原論の定義では幅の無い長さは線ですが、そうすると線には直線しか存在しなくなります。線という概念と長さという概念は切り離せなません。曲線の長さという概念が成立しないので、曲線自体が存在し得ないのです。これではユークリッド幾何の構成に無理があると考えるしかありません。
むしろ幾何学的原子を用いて幾何学を構成する方が自然なのです。唯一の欠点は曲線が存在できない点ですが、それはユークリッド幾何でも同様です。幾何学的原子を用いれば、微分積分によって曲線をいくらでも近似できます。曲線はいくらでも近似できる存在ですし、曲線の方程式を求めることも可能です。私はこの部分は人間の視覚情報処理の欠点であると考えていて、別の機会により詳細に議論したいと考えています。
積分の創始者はアルキメデスですが、アルキメデスは円周率の近似値を求めています。その方法を図6に示します。円周を内接する正多角形と外接する正多角形で挟みます。こうすると円周の長さは、内接する正多角形の周囲の長さより長く、外接する正多角形の周囲の長さより短くなります。こうして正多角形の辺の数を増やしていけば、円周の長さはいくらでも精確に近似出来ます。この図では正六角形と正十二角形を示しました。アルキメデスは辺の数を倍々と増やしていき、正九十六角形にまで到達しました。


図6.多角形による円の近似

 こうして円周の長さはいくらでも近似出来るのですが、ここで根本的な問題があります。円周の長さとは何かということです。直線は、幅のない長さとして定義されます。2点間の距離は、2点間の直線の長さです。円は直線を含まない図形なので、簡単には円周の長さを定義出来ないのです。アルキメデスの仕事は当時から、存在するとは限らない物を存在するものとして近似していると批判されていました。この問題に関しては別の機会に考えてみます。

4.積分とは何か

 曲線が存在するかどうか、その問題は一時棚上げとします。その上でユークリッド空間の点と実数を対応させたのが解析学です。そして曲線は存在するものとして、曲線の方程式を求めます。ところが曲線図形の面積や曲線の長さを求めるには、やはり幾何学的原子が必要です。面積を求めるためには長方形が基本図形となり、曲線の長さを求めるためには直角三角形が基本図形となります。積分には幾何学的原子が必要です。図7は積分の説明でよく使われる図なので、似たような図を誰もが見たことがあると思います。


図7.積分の考え方

 図7には曲線のグラフを示します。区間left[ a,b right] について、曲線とX軸に挟まれた灰色の部分の面積を求めます。普通は曲線に囲まれた図形の面積は単純には計算出来ないので、小さな長方形に分けます。そのために区間left[ a,b right] n等分します。そうすると長方形の幅はfrac{b-a}{n} となります。長方形の高さはX軸から曲線までの長さとなります。曲線の式をy=f(x)とすれば、点aでの高さはf(a)となります。こうして細い1個の長方形の面積を求め、全ての長方形の面積を合計します。ここで幾何学的原子に無限の種類があることが役に立ちます。nをいくらでも増加させることが出来るので、細い長方形の総面積は求める面積にいくらでも近づきます。これが積分の考え方です。より詳しく説明するために図8に積分の原理を示します。


図8.積分の原理

 ここでは計算を単純化するために直線に囲まれた面積を積分を用いて求めますが、原理は曲線の場合と全く同じです。図7-(1)にはy=f(x)のグラフを示します。区間[0,1]においてX軸とグラフに挟まれた灰色の部分の面積を、積分を用いて求めます。まず区間left[ 0,1 right] n等分すると、細い長方形の幅はfrac{1}{n} となります。
 最初はn等分した区間の左側の点における関数の値を細い長方形の高さとします。関数y=xは単調増加するので、この長方形の面積の合計は求める面積より小さくなります。図7-(2)に区間の左側を高さとする長方形による近似を示し、これをLEFT(n)と表します。


 次に同様にして、区間left[ 0,1 right] n等分して、n等分した区間の右側の点における関数の値を細い長方形の高さとします。関数y=xは単調増加するので、この長方形の面積の合計は求める面積より大きくなります。図7-(3)に区間の右側を高さとする長方形による近似を示し、これをRIGHT(n)と表します。


求める面積をSとすると、SLEFT(n)より大きく、RIGHT(n)より小さくなります。Sは間に挟まれているので、Sの値はいくらでも精確に近似出来ます。ここでnをどんどん増加させていくと、Sfrac{1}{2} にいくらでも近づきます。

 

この場合は二重帰謬法が使えます。まずSfrac{1}{2}ではないと仮定します。例えば差がleft| S-frac{1}{2} right| =dであったとします。d>frac{1}{2n} となるようにnをとれば、Sfrac{1}{2} より大きくても小さくても、矛盾を導けます。必然的にS=frac{1}{2} でなくてはいけません。これは二重帰謬法と言います。この方法の弱点は、確かにSが存在していることを証明できないことです。この例の場合は単純化するために直線ですから、正しい値はfrac{1}{2} で間違いありませんし、二重帰謬法も問題ありません。それでもこの方法では、直接Sを求めることは出来ません。

 同様に、この方法を一般の曲線に適用した場合、曲線で囲まれた面積を近似することは出来ますし、nを増加させることによって、近似の精度はいくらでも上げることが出来ます。ところが二重帰謬法を用いても、曲線の存在自体を証明することは出来ません。幾何学的原子は長方形または直角三角形ですから、図形が幾何学的原子で構成されているなら、真の曲線は存在しないことになります。
 それでも幾何学的原子を導入すると、ユークリッド幾何の欠点を補うことが出来ます。点から図形も平面も構成出来ないのがユークリッド幾何の最大の欠点ですが、幾何学的原子から平面は容易に構成出来ます。幾何学的原子を導入する最大の利点は、曲線の長さ、曲線図形の面積を計算出来ることです。しかも通常の画素からなる幾何学との相性も良いので、現実への適用も容易です。
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自然数による世界の認識

1. 人間の数えやすさ

 デジタル情報は自然数1から構成されていますが、デジタル情報は現代ではますます重要になっています。そこで自然数1とは何かが問題になりますが、自然数1と人間には深い関係があります。誰でも物心がついたときにはすでに、自分自身を一つのまとまりと見なしています。この問題については、数の起源で考察しましたが、ここに要約して新しい考察を加えます。
自然数は1から始まり、2,3,4,5・・・とどこまでも続く数です。自然数の基本的な使用法は物を数えることです。ここで単純なケースについて考えてみます。野原で子供達が小石を集めて遊んでいて、たくさん集めた方が勝ちというルールで順位をつけて競っている状とします。小石を数える時、よく考えると多くの問題があります。まずは石の大きさだけに絞って考えてみます。極端に大きい石は、持ち運べないので除外されるべきですし、次に極端に小さい石も、砂粒と区別できなくなるので除外しなくてはなりません。ところが、その両方の境界を決めようとすれば、子供同士で言い争いになるに違いありません。それらを解決しても、石の硬さや色や形をどうするかという問題もあります。さらに難しい問題として、使用している石が二つに割れてしまった場合、子供達は混乱すると思われます。おそらく現実に遊ぶ場合、力の強い子供がルールを曲げてしまう場合も出てくるでしょう。結局のところ一個の石の定義は、その時々の子供同士の力関係によって、少しずつ変わることになると思われます。このように物体を厳密に数える場合、誰もが納得できる結果を得るのは困難です。結局のところは学界の権威で定義するぐらいしかないのです。上の例の石の大きさは地質学では定義されていて、粒径2mm以下は砂(sand)となり、粒径2mmから4mmが細礫(granule)で石と砂の中間になり、粒径4mmから64mmが小石(pebble)となり、粒径64mmから256mmが丸石または大礫(cobble)となります。それ以上は岩または巨礫(boulder)となりますので、この場合は石から除外するべきでしょう。そうすると、pebbleとcobbleを併せて粒径4mmから256mmを石と定義するのが良いと思われます。ややこしいと思われるでしょうが、このぐらいしか解決策がありません。
それに対して数える対象として人間を選んだ場合、上記のような困難はほとんどありません。背が高くても低くても一人となり、男性でも女性でも、老人でも子供でも赤ちゃんですら1人となります。病的状態を除くと、人間は自分自身が一人であるという意識を持っているのが普通であって、他の人間も自分と同じ一人と認識します。また一人の人間を分割すると、その人間は重傷を負って、体の一部を失って回復するか、死んでしまうかのどちらかです。すなわち怪我をしても病気をしても、生きている限りは一人であり、中間の状態はあり得ません。この人間を一人とする認識は強固なもので、生後かなり早い時期に生じるように見えます。最初は自分自身を一人と認識し、次に母親それから他の家族も、一人として認識すると思われます。
このように人間が自分自身を一人と認識し、他の人間も一人と認識する傾向は強固です。そこで人間が自然数1としての性質を持つかどうかを検討します。自然数1の性質を最も深く研究したのは古代ギリシャ人です。その中でもプラトンは、広く認められていたと思われる意見を提示しています。プラトンは「国家」(republic)の中で繰り返し自然数1の性質について述べており、特に以下の三点を強調しています。第一に「1」が分割不能であること。第二に「1」が変化しないこと。第三に「1」と「1」がお互いに等しいこと。これをプラトンの三原則と呼ぶことにします。
人間がプラトンの三原則を満たすかどうかを検討します。第一の分割不能という点に関しては、特に脳と心臓は一人の人間には一つしか無く、これらの臓器がない状態では人間は独立して生きられません。そう考えると、人間は分割不能としても異論は少ないでしょう。第二の不変という点に関してですが、人間の細胞は常に入れ替わっており、人体を構成する物質も新陳代謝します。そこで重要になるのは自我の同一性です。自分は同じ人間だという意識があり、自分の経験に関する記憶の連続性を伴います。これは幼児の頃から発生し、精神が健康であれば死ぬまで続きます。第三のお互いに等しいという点に関して、人間の遺伝子は誰でもほとんど同じであり、人による違いはわずかで、遺伝子全体の0.1%程度です。さらに人間は、自分と同様の自我を持つ存在として、他の人間を認識します。その意味では人間はお互いに同等ですので、それが民主主義の根拠となっています。こう考えると、人間はプラトンの三原則を満たすので、人間を自然数1の原型と考えることが出来ます。

2.自我の単一性

自我という言葉はよく使われますが、最初は簡単に自分という意味で用います。数える主体となるのは自我ですし、人間は数える対象としての他人にも存在を認めます。そこで自我の性質を考察します。歴史的には、近代的な自我の概念を最初に記述したのはデカルトです。デカルトはすべてのものの実在を疑いました。その根拠としてデカルトは、夢について述べています。我々は夢の中で、多くの場合は現実の体験をしていると思いこんでます。例えば怪物に追いかけられている夢を見ている場合、その最中においては必死で逃げるだけで、全く現実と区別できません。徐々に目が醒めてくると、これは夢かも知れないと思い始め、最後に目が醒めてから、ああ夢で良かったと思うのです。デカルトは、夢の中では夢と現実が区別できないと述べています。
夢の体験は一種の幻覚と考えることができますが、デカルトの時代には自分の体験が現実でない状況は、夢ぐらいしかなかったと思われます。ところが現代では、幻覚を起こす薬物も何種類もあり、機械によるヴァーチャルリアリティも一般的です。さらに脳の一部を電気刺激して幻覚を起こすことすら可能になっており、かなり脳神経を操作できるようになっています。そこまでしなくても、人間の感覚は簡単にだまされます。例えば遊園地の三次元映像の恐竜でも、立体視用眼鏡をかけると現実に存在するように見えてしまいます。さらに我々は手品などにも簡単にだまされます。ましてや脳を直接操作されたり、薬物を使用された場合、操作された側には、現実と幻覚を区別するのは困難です。そこから多くのSF小説や映画が作られています。もしかするとマトリックスという映画のように、私が現実の体験と思っているのは全て幻覚であって、私は眠らされて脳を電気刺激されて、幻覚をみさせられているだけかもしれません。
ところがその場合でも、私が存在して私が現実を疑っているということだけは確かです。つまり疑う主体としての自我だけは確実に実在しています。そこでデカルトは「我惟う、故に我在り」(Discourse on the Method)を哲学の第一原理としました。ここでの自我は、疑う主体であり考える主体です。この自我は単一でなければいけません。これを精神医学では自我の単一性といい、正常な自我の条件です。このような分割不能の単一の主体としての自我は、人間においては思考の主体です。このような言語を用いた思考の主体としての自我は、正常な大人の人間に限定されます。他人の自我は言語でしか確認できませんので、人間以外の動物または言葉を話せない人間が自我を持っていたとしても確認できません。
上に述べたように思考の主体として自我を考えると、人間にしか自我は認められません。それに対して、運動の主体として自我を考えると動物に自我を想定できます。動物の個体を統一的に動かすには自我は不可欠です。自我は中枢神経系に存在すると考えられますが、中枢神経系は動物に特有であり、運動のために中枢神経系は進化したと考えられます。多細胞動物は多くの細胞を統一的に動かさなくてはなりません。そうでなければ体の右側と左側に餌があった場合、体の左側の細胞は左に右側の細胞は右に進もうとすることになり、多細胞動物は身動きがとれなくなります。どんな場合でも中枢神経系があれば、どちらに進むのが生存により有利であるか判断し、有利な方に進むことが出来ます。運動の方向を選択するための司令塔として中枢神経が発生し、その延長線上にデカルトの自我が発生したと考えられます。
この司令塔を自我と考えた場合、それはヤスパースの規定した自我に近いものになります。ヤスパースは偉大な精神科医で、後に哲学者としても有名になります。当時の精神医学の最大の問題は統合失調症でしたから、若き日のヤスパースも統合失調症の精神病理学に取り組み、精神病理学原論を表しました。統合失調症の主症状の一つに自我障害があります。まず思考の中心としての自我が障害されます。そのため、患者の思考の論理的なまとまりが障害されます。ひどくなると、会話しても患者が何を言いたいのか分からなくなります。さらに運動の主体としての自我が障害されると、緊張病性昏迷という状態になります。重症の緊張病性昏迷では、患者は全く動くことができず、同じ姿勢を維持します。その状態では、患者は声を出すこともできず、食事もできず、便も尿も垂れ流しの状態となります。ヤスパースは精神科医でしたので、このような患者の自我障害を記述できるように自我を規定しました。そのおかげで、ヤスパースの自我の定義は、デカルトの自我と違って、言語が使用出来ない動物の自我を規定することが出来ます。
ヤスパースは自我の重要な四つの性質を挙げていますから、四つの性質について運動の面を中心に記述します。第一に自我は最高の司令塔なので、自分が主体となって行動を決定します。これを自我の能動性といいます。第二に自我は分割できません。もしも自我が二つあれば、二つの命令が存在し得ることになり、前に述べたように人間は動けなくなります。全身を統一的に動かすには、自我は単一でなくてはいけません。これを自我の単一性といいます。第三に自我には時間的連続性があります。人間は生まれてから死ぬまでに、成長し老化しますので、体も心も変化します。それにもかかわらず、人間は一生を通じて、自分自身は同じ人間と考えます。これを自我の同一性といいます。別の名称としては、自分が別の人間に変化することはないという意味で、これを自我の不変性と呼ぶ学者もいます。第四に自我には外界との境界線があり、自我の命令が及ぶ範囲は自分の体に限られます。これを自我の限界性といいます。具体的には皮膚が境界となり、自分と外界を分けます。
動物が運動するためには、原始的であってもヤスパースの自我が必要です。まず能動性と単一性がなければ、一つの方向を選択して運動することは出来ません。次に限界性は生物には絶対必要です。どんな生物でも外界と区分されていなくてはいけません。最後に同一性ですが、小さな粒子のブラウン運動という完全に不規則な運動と違って、動物の運動にはある程度の時間は一定の方向に進むという持続性があります。それには原始的であっても自我の同一性が必要です。つまり少し前の自分と現在の自分は同じでなくてはいけません。もしも自我の同一性のない動物が存在したとすれば、その動物の運動には連続性がないため、ブラウン運動と見分けがつかなくなります。
逆に運動の主体としての自我は、すでに単細胞動物のゾウリムシの段階から存在しなくてはなりません。一つの細胞は一つの方向にしか運動できませんから、ゾウリムシは最初に運動の方向を選択して、次に全体を統一的に動かす必要があります。ゾウリムシには単一性と限界性はあり、さらに能動的に動きますし、一定時間は同じ方向に向かうので、自我の同一性もあると考えられます。例えばゾウリムシが、餌のある方に向かって進む時に、全身の全ての繊毛は協調して動きます。つまり単細胞動物といえども、全体を統一する機構が必要ですので、それを自我の原型と考えることは可能です。

3.生命と自然数1

 人間は1個の生命です。人間のような高等動物では個体を1個の生命と考えます。しかしプラナリアのように分割しても再生する動物もあります。さらに植物の場合、かなり高等なものでも株分け出来ます。より下等な生物になると、単細胞の時期と多細胞の時期の両方がある場合もあり、個体を生命の単位とすると困難が生じます。また高等動物でも、マクロでは分割不能に見えますが、個々の細胞を単離して培養することは可能です。全ての生物は細胞から構成されており、細胞は最小の自己複製単位であるので、学問的には細胞が生命の単位とされています。
生命には分割不能な最小単位として細胞があります。細胞は分裂直前でない限り、分割して二つになることはありません。細胞は分割されると死んでしまうか、一部を失って生き残るかです。細胞は、その一部を失っても、生存していれば自己修復しようとします。分割不能な最小単位があるというこが生物の特徴です。分割不能であるという点が、生命の自然数1と共通する一番目の特徴です。
さらに、どの生命も共通する明確な以下の二つの要素から構成されます。一番目はDNAです。DNAはあらゆる細胞の遺伝情報を担っています。二番目は細胞そのものです。細胞には必須の要素として細胞膜があります。細胞膜は細胞の内と外を隔ており、細胞は内部環境を一定に保とうとします。この機能をホメオスタシスと呼びます。ホメオスタシスとは、生命が生体内のpHや塩濃度などを一定に保とうとすることです。ホメオスタシスが崩れると、生命にとって重要な酵素は機能しなくなり、細胞は死んでしまいます。これは酵素には至適pHや塩濃度が決まっているので、一定の内部環境を保てないと、多くの重要な酵素が機能しなくなるのです。
DNAについては後に論じるとして、ここでは細胞について考察します。細胞の最も重要な役割は細胞内と細胞外を区分し、ホメオスタシスを保つことです。この性質によって細胞は分割不能となり、死は不可逆となります。細胞を分割すると、細胞外の物質が大量に細胞内に流入してホメオスタシスは保てなくなり、必然的に細胞は死んでしまいます。つまり細胞は分割不能です。次に細胞が死んでしまうと、細胞外の物質が急激に流入し、細胞外と細胞内は同じ環境になります。これは熱力学的に平衡な状態なので、熱力学の第二法則により、細胞の死は不可逆です。このように分割されると死んでしまう。すなわち、分割不能であるという点が、生命の自然数1と共通する一番目の特徴です。
細胞をDNA及び蛋白質の入れ物と考えます。蛋白質はDNAにコードされていて、DNAを元に蛋白質は合成されます。それらの反応には酵素の働きが必要なので、ホメオスタシスの存在は絶対条件です。そのためには必ず細胞は外界と区分されていなくてはなりません。ですから細胞内を外部と隔てる細胞膜は最低限必要です。おそらく生命の発生した頃は、細胞膜は内と外を隔てる膜としての役割しかなかったのでしょう。ここで細胞を単なる入れ物とみなした場合、その基本的な細胞膜の構造は同じなのであり、細胞の内部環境を保つことが役割です。その意味では全ての細胞をお互いに等しいと考えられます。お互いに等しいという点が、生命の自然数1と共通する二番目の特徴です。
細胞を単位とする一個の生命は分割不能であり、お互いに等しい。ただ分裂増殖したり死んだりする場合があるので、不変とは言えません。つまり細胞はプラトンの三原則のうちの二つを満たすと考えられるので、細胞を単位とする生命を自然数1の原型と考えることが出来るのです。また細胞が分裂によって誕生し、死ぬか次に分裂するかするまでの期間は、その細胞は不変と見なすことも出来ます。そうすると、限定的にプラトンの三原則を満たすとも考えられます。

4. 分子進化の中立説

 生命を自然数1の原型とすれば、DNAの塩基は自然数1そのものとしての性質を持っています。DNAの1本の鎖には、アデニンチミングアニンシトシンの4種類の塩基が1列に並んでいます。それぞれの塩基をアルファベット1文字で、A,T,G,Cと表します。DNAに関して、より詳しく知りたい方は、DNAとデジタル信号を参照してください。
ここで不思議なのは、DNAのアデニンはずアデニンと等しいということです。アデニンが溶液中に存在すれば簡単に化学変化して、異なる分子になってしまいますが、生物のDNA中のアデニンはお互いに等しくなるのです。 ここで、お互いに等しいということの意味を考えます。実は我々の身の回りには真に等しい物は存在しません。例えば小石と小石、犬と犬、山と山、自然に存在するものには同じものはありません。人工物ならば同じように見えますが、テレビでもラジオでも各商品に個性があり、完全に同じではありません。例えばテレビでも商品ごとに個性があり、それは使ってみると分かります。すぐに映らなくなる不良品もあり、なかなか壊れない物もあります。完全に等しいテレビは存在しません。
このように人間が視たり触れたり出来る物の中には、完全に等しい物体は現実には存在しません。プラトンの「国家」で、ソクラテスは「感覚のうちにあるすべての等しさはかの等しさそのものに憧れながら、それに不足している。」と語ります。そうすると人間は『等しさ』そのものが何であるかという知識をどうやって得たのでしょうか。続けてソクラテスは感覚によって知識を得たのでない以上、生まれる前に知識を得ていたのでなければならないと語り、だから学習とは想起に他ならないと言います。これを現代の生物学に基づいて考えると、生まれる前に得た知識とは遺伝的に与えられた知識、すなわちDNAに記録されたものと考えられます。
ここまで準備して、DNAがデジタル情報である理由を考えます。生命はDNAの塩基配列を一定に保とうとします。DNAの塩基が脱落したり化学変化したりすれば、生命はそれを修復しようとします。そして修復しきれない場合は死につながるのです。これは一世代の話ですが、重要な遺伝子の塩基配列は世代を超えて一定に保たれます。これは自然選択の力です。生存に重要な遺伝子に突然変異があると、その個体は子孫を残せずに死んでしまいます。この自然選択によって生命は長期的に情報を保存できるのです。その原理は遺伝子とエントロピーに記載していますが、一部を引用します。

 進化論を補完する分子進化の中立説によると、特に生命にとって重要な遺伝子に対しては、自然選択は遺伝子を保存する方向に働きます。分子進化の中立説については、ここで詳しくは説明しませんが、有名な例を挙げてみます。真核生物の核タンパク質であるヒストンH4は102個のアミノ酸からなるペプチドですが、マメ類とウシのヒストンH4のアミノ酸配列を比較してみると、たった2個の違いしかありません。動物と植物が分かれたのは10億年以上前とされていますが、それからアミノ酸102個中の2個しか変化していません。これは地表にある生命のない物体ではあり得ません。10億年の間には、岩石はもちろんのこと、山脈や平野や大陸も変化しており、原形をとどめていないとされています。自然の地形ですら変化してしまいますから、人間の建造物などは問題になりません。ピラミッドでさえも、一万年もたたないうちに、かなり風化しています。デジタル記録メディアであるCDなどは、百年も保たないとされています。ところが生物にとって重要なタンパク質のアミノ酸配列は長期間保存されます。特にヒストンH4においては、ほとんどのアミノ酸の置換が致死的であるため、突然変異を起こした個体が除去されて、アミノ酸配列が保存されたのです。このように生物は、自然選択を含むコピーを繰り返すことによって、遺伝情報を保存することが可能であり、生存に重要な塩基は自然選択によって不変に保たれます。

このように木村資生の分子進化の中立説は、生命が情報を保存する原理を明らかにしたもので、ダーウィンの進化論を補完します。ダーウィンは生命が進化することを述べたのですが、生命がどうやって情報を保存するかには触れませんでした。その点は、メンデルの遺伝の法則、ワトソンクリックのDNAの二重らせんの発見に加えて、木村資生の分子進化の中立説によって補完されたのです。
 分子進化の中立説によると、生存に重要なDNA配列の1個の塩基はプラトンの三原則を満たします。地球上では、高度に保存されたDNAの塩基ほど自然数1に近いものは無いのかも知れません。例えばアデニンのような塩基はそれほど安定したものではなく、常に化学変化する可能性があります。ところが生物はDNAの塩基を修復するシステムを発達させて、出来るだけDNAの塩基を不変に保ちます。さらに特に重要なDNAの塩基は、自然選択によって一定に保たれます。このようなDNAの塩基の性質は、ギリシャ人の考えた不変の自然数1の性質と一致します。

5.自然選択にはエントロピーの法則は適用されない

 より理解し易くするために、自然選択を単純化して図1に示しました。 生命と自然数1で述べたように、細胞を単なる入れ物と考え、単細胞生物を抽象化して楕円形で示します。抽象化した単細胞生物はプラトンの三原則のうち二つを満たします。お互いに等しくて分割不能です。また単細胞生物は環境に適応していれば分裂増殖しますが、環境に適応できなければ死にます。重要なのは死が不可逆であるということです。

図1.自然選択

 

 この例では簡略化してDNAの3つの塩基のみを示しました。残りのDNAの塩基配列は全て等しいものとします。図に示した例では、三番目の塩基が突然変異すると死んでしまい、正確にコピーされると生き残ります。生き残ると、どんどんコピーされて増殖します。つまりGという塩基は直接的に自然選択の対象となります。その結果としてGは長期にわたって保存され、不変性を獲得するのです。Gはお互いに等しく、不変で、分割不能となり、プラトンの三原則を満たし、自然数1としての性質を獲得します。Gすなわちグアニン自体は普通の化学物質なのですが、Gが単細胞生物の生死を決定するという点が重要です。つまり生きた生物のDNAが保存されるのです。死んだ生物のDNAは長期間保存されません。死んだマンモスのDNAからマンモスを再生しようと、ロシア共同マンモス復元プロジェクトは行われていますが、たった1万年前のマンモスのDNAでさえ、完全なものは見つかっていません。
普通の物質は熱力学の第二法則を逃れることは出来ません。この法則は一般的にはエントロピーの法則として知られています。DNAも例外ではなく、生物が死ぬと分解されますが、生物が生きている状態でも徐々に壊れていきます。ところが遺伝情報が自然選択を受ける場合のみ、エントロピーの法則は遺伝情報に適用されないように見えます。何故ならば生物の死というのは完全に不可逆な現象と見なされているからです。少なくとも、ダーウィンパスツール等によって生物学が確立した19世紀以後、死んだ生物が生き返ったという記録はありません。死の不可逆性は生命の進化の条件となります。初期の生命はかなり単純であったと思われます。徐々に生命が複雑になり、生き返る確率が十分低くなった時点で、遺伝情報の蓄積が可能になります。進化するほど生命は複雑性を増すので、より死んで生き返る確率は減ります。そうなると遺伝情報の保存はより容易になると考えられます。現存している生物については、生物の死は完全に不可逆と見なし得るように思います。
生物の死が不可逆と見なし得るならば、エントロピーの法則は自然選択には適用されません。熱力学の第二法則は基本的には確率の法則なので、完全な不可逆過程を含む現象には適用できないのです。単純な例について考えます。沸騰したやかんのお湯は徐々に冷めて、最終的に室温と同じ温度になります。これが平衡状態で、熱力学の第二法則によれば、これは不可逆な過程です。しかし、これは一番確率の高い状態になっただけで、絶対的な不可逆過程を含んでいるわけではありません。人間がエネルギーを使えば、もう一回お湯を沸かすのは簡単です。もう一つの例を考えます。食塩と水があったとします。食塩を水に入れると徐々に溶けて食塩水になります。食塩と水が均一に混ざった状態が平衡状態です。一見すると不可逆に見えます。それでも食塩水を蒸留すれば、再び水と食塩を分離できます。このように平衡状態に向かう過程には、完全な不可逆過程は含まれず、人間の手を加えれば逆転可能なのです。ところが生命の死を含む過程は逆転できません。たった一匹のバクテリアが死んだとします。全人類の科学力と財力を結集しても、死んだバクテリアを生き返らせることは出来ません。このように生命の死は完全な不可逆過程なのです。つまり生命の死を含む自然選択には熱力学の第二法則は適用されません。
熱力学の第二法則が有るにもかかわらず、自然選択によって情報が保存されるのは、ミスコピーが生物の死によって非可逆的に除去されるからです。詳細は遺伝子とエントロピーで述べましたので、ここでは簡略に記載します。普通の情報はコピーを繰り返せば劣化します。例えば99%の精度でコピーした場合、70回もコピーすれば元のデータは半分以上は失われます。精度が99.99%でも7000回コピーすれば、やはりデータの半分以上が失われます。このように、いくら精度を上げてもコピーの回数が多くなれば劣化します。ところが自然選択では、生物の死によって非可逆的にミスコピーを除去できるので、何回コピーしても劣化しないのです。例えばある遺伝子の全ての突然変異が致死的である場合、その遺伝子のコピーの精度が99%でも、ミスコピーの1%の個体は死んでしまいます。結果的に生き残った個体は100%正確な塩基配列を持っています。それ故に重要な遺伝子のDNAの塩基配列は、長期間保存可能なのです。
具体的な例について考えます。人間の体細胞は分裂増殖しますが、完全な自然選択を受けるわけではありません。そのためミスコピーが蓄積して、細胞が癌化したり老化したりします。これが人間に寿命がある理由の一つです。それに対して、バクテリアは自然選択に常にさらされているので、ミスコピーが蓄積することはありません。致死的な突然変異のあるバクテリアは死んでしまい、非可逆的に除去されるからです。生きているバクテリアの重要な蛋白については、正確なコピーばかりが残ることになります。
こう考えるとDNAの塩基配列を保存するには自然選択が必要で、保存されたDNAの各塩基は自然数1としての性質を持つということが分かります。それは細胞の性質に由来するものです。単細胞生物は環境に適応していれば分裂増殖し、適応できなければ死んでしまいます。結果的に単細胞生物は環境に最も適合したDNAの塩基配列をもつことになります。そして生存に重要なDNAの塩基は自然数1としての性質を持つことになります。こう考えると、生命は自然数によって世界を認識するものであると定義できます。

 

 

 

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